海を目指して七日旅

−2話−

黒蒼昴

「へ?」
 彼女の言葉がどういう意味か分からず、俺は不思議そうな表情を浮かべる。彼女ははぁ、とため息をつくと俺の目前に指を突きつけて言う。
「いい? まだ呆けるには早い歳で自分の名前も思い出せないような人の事をね、世間では記憶喪失って言うのよ」
「……き、記憶喪失っ? って俺が?」
 無言で頷く彼女に俺は笑い飛ばすように言う。
「はははっ、何を言うかと思えば記憶喪失なんて。そんなの映画とか小説の中だけの話だろ」
「現実にあるから映画とか小説になるんじゃないの。それは、まあ私もまさか身近に記憶喪失の人が出るなんて思ってもみなかったけど……」
 笑われるとは思わなかったのか彼女は若干むすっとした表情で答える。
「ははは………マジで記憶喪失なの、俺?」
 笑顔を引っ込めて真剣に訊ねる俺に彼女は答える。
「むしろ記憶喪失以外に何かあると思う?」
 彼女の言葉に俺もなるほどと納得して頷く。
「それもそうか……ところでさっきからお前は俺の事を知ってるような口ぶりだけど、誰? あとなんで俺がここにいるのか教えてくれないかな」
 会うなりいきなり変なことを訊いてきたり、これだけ遠慮なくずばずば物を言ってくるので少なくとも俺のことを知っている人間なんだろうと思い、俺は訊ねる。
「ん…………えと――」
 すぐに何らかの返答が返ってくるかと思いきや、彼女は何やら思案顔を浮かべて押し黙った。
「……………」
「…………あの〜、もしもし? 何か返事してくれるとありがたいんだけどなぁ」
 しばらく待っても中々口を開こうとしない彼女に痺れを切らした俺は、彼女の顔の前で手をひらひらさせる。
「――え? あ、ああ、ごめんなさい。ちょっと、そのどう説明したらいいかなって考えこんじゃって」
 はっと我に返った彼女は、慌ててそうまくし立てるとあははと照れ隠しするように笑った。
「……え〜、おほんっ。まず私が誰かだけど、ひどいじゃないの兄さん、実のかわいい妹に向かってそんなこと言うなんて」
「え、かわいい……妹?」
 妹だったのか。道理でやけに知人か友人にしてはずけずけ物を言ってきたり乱暴なことをしてくると思った。……う〜ん、できればもう少しおとなしい妹がよかったなぁ。
「なんか今妹以外の単語にも疑問符がつかなかった?」
「いえいえ、めっそうもない。我がかわいい妹よ」
 すまし顔で返事をする俺に「そう?」と半ば疑いの視線を向けながら俺の妹は話を続ける。
「次に何でここにいるかだけど、兄さんは私と旅行してたのよ」
「旅行?」
 俺がきょとんとした表情で訊ね返すと、そうよと彼女は頷く。そして俺の車の後ろに歩み寄ると勝手にリアハッチを開けて中をごそごそと探りながら話し続ける。
「私、海をこの目で実際に見たことが無いの。だから海を見に行こうと、その道中でいろいろ観光したいと思って七日間の旅行計画を立てたのよ」
 そう言い終わると共に彼女は車に積んであったのであろう彼女の荷物から取り出したのか、何冊かの観光ガイドブックを俺に手渡した。
 俺はそれらを受け取り、表紙を興味なさげに眺めてからそれらを彼女に返して口を開く。
「海を目指してってどこかの青春ドラマみたいな話だな……ということは、もうその最終回を迎えた後か?」
 辺りの浜辺をぐるりと見渡して俺が言うと、彼女はなぜか深くため息をついた。
「……まだ始まってもいないわよ」
「え? もう旅の目的は果たしたじゃないか」
 怪訝な顔で俺が海を指差しながら言うと、彼女は首を振って不機嫌そうに答える。
「これ、海じゃなくて湖。ここ琵琶湖なの」
「は? 琵琶湖?」
 俺はそう言われてもう一度海だと思っていたものをよく見る。なるほど確かに海にしては波が穏やかすぎるような気がする。
「琵琶湖も海もどっちも似たようなものじゃないか」
 俺がそうつぶやくと妹はむすっとした表情をして俺の言葉を大声で否定する。
「ち〜が〜う〜っ。海はこうもっと大きくて青くて綺麗なの!」
「なんか海に対してすごい幻想を抱いてるな。そんなんじゃ本物を見たときにがっく――がっくと口が開くほど感動するぞ、だからその振り上げた手を降ろそうな。……で、今回の旅行と俺たちがここにいることとついでに俺が記憶喪失になっちゃった関係について簡潔に教えてくれないか?」
 俺がそう訊ねると、妹は本当に簡潔に言葉を紡いだ。
「自業自得」
「……俺が悪かった、もう少し長く教えてくれないか」
 謝ると、今度は長く説明をしてくれた。
「えっとね、道を車で走ってるときに兄さんが余所見したのよ。で、道から落ちて横の砂浜に車ごとダイブしたわけ。たぶんそのときの衝撃で記憶喪失になったんじゃないの?」
「なったんじゃないのって、ずいぶん軽いのりで言ってくれるじゃないか」
 妹の説明に俺が軽く文句を言うと、彼女は上品に微笑んで口を開く。
「そのときのお衝撃でお記憶をお喪失あそばされたんじゃありませんこと?」
「……喧嘩するほど仲がいいって言うよな。俺、なんだかお前と一方的に仲良くなりたくなってきちゃったよ」
 俺がにっこりと微笑んで言うと、妹は「さてと」とつぶやいてガイドブックをまた元の荷物の中にしまいこんだ。
「そろそろ行きましょうよ。もうすぐ暗くなっちゃうわよ?」
 彼女はそう言うと車の助手席に乗り込んだ。
「ああそうだな。そして今軽く俺の言葉を無視したな」
 運転席に乗り込むと、俺の言葉に軽く意外そうな顔をして言う。
「口喧嘩ならすでに私の圧倒的勝利で幕を収めたじゃない」
「ははは、うまいこと言うじゃないか。そして勝手に勝利を収めるな。……えと、この近くの病院までどれくらいあるかなぁ」
 車のエンジンをかけてそうつぶやくと、なぜか妹は不思議そうな口調で訊ねる。
「病院ってどこか具合でも悪いの?」
「ああ、俺の隣に頭の具合が悪い奴がいるな。お前な、記憶喪失なんだぞ。普通病院に行って診てもらうのが筋だろうが」
 助手席に座る妹の方を向いてそう言うと、彼女はこちらをまっすぐ見つめながら言う。
「まだ旅行中よ。それに記憶喪失ってほっといてもすぐに記憶が戻るって聞くわよ?」
「いや旅行って、俺がこんな状態じゃ無理だしお前だって楽しく無いだろ。今回は中止にしてまた今度行こう、なっ」
 俺がなだめるようにそう言うと、彼女は「分かった」と不機嫌そうに短くつぶやく。そしていきなり助手席のドアを開けて外に降りた。
「お、おいっ、何してんだ?」
 トランクを開けて荷物を引っ張り出している妹に向かって俺は慌てて声をかける。すると彼女はこちらを向いて怒っているような低い声で言った。
「兄さんはこれから病院に行くんでしょう? だから私だけで旅行を続けるの。じゃあね」
 トランクを乱暴に閉めると妹はすたすたと歩き始める。
「こら待てって……あぁ、もうしょうがねぇなっ」
 俺は軽く舌打ちをすると急いで車から降りて、振り返ることなくまっすぐ歩き続ける妹を走って追いかける。
「分かった、分かった。一緒に旅行してやるからっ」
 追いついて手を掴んで引き止めると、とても嬉しそうな顔をして彼女は振り返った。
「ほんと? ありがとう! じゃあ、早速行きましょ」
 意気揚々に今度は車に向かって歩き始める妹の背中を見て、自分が何かとんでもないことをしでかしてしまった気がしてふつふつと後悔の念が湧いてきた。が、すでに旅行してやると言ってしまった手前意見を翻すわけにもいかず、俺は深くため息をつきながら再び車の運転席に戻った。
 その後なんとか浜辺から道路に上がる傾斜を見つけ、日も落ちて薄暗くなってきた車道を走りながらふとあることに気づいて隣で楽しそうに鼻歌を歌っている妹に訊ねる。
「そういえば、まだお前の名前を聞いてなかったな」
 俺の問いに彼女はきょとんとした表情を浮かべる。
「私の名前? ああ、そうか兄さんは私の記憶がすっぽり抜け落ちてるんだものね。じゃあ改めて……初めまして瀬川啓太の妹、瀬川麻衣です。これからの七日間の旅行、よろしくお願いね」
 にっこりと微笑む麻衣に俺も同じく笑いかけて明るく答える。
「おう、こちらこそよろしくな」
 ――こうして記憶喪失の俺と、かわいいと破天荒の意味がイコールで結ばれた欠陥品の辞書を持つ妹とのどたばたした旅行劇が幕を開けた。
 

 

つづく・・・ 


 

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