『それはきっと、ごくありふれた日常』
<笹本信也編>

雪桜

 朝のさわやかな空気と、時折聞こえてくる小鳥のさえずり。
 そんな中俺、笹本信也は通学路の途中で人待ちをしていた。約束事には5分前行動を信条として行動に移した結果、俺はいつも一番乗りで待ち合わせ場所に着く。人を待たせるのは嫌いだが、待つのは嫌いではないから別に構わない。
 ふわ、と大きな欠伸を手のひらで覆って隠していると、後ろから聞き慣れた声がした。
「おはよう」
 待ち合わせ時間ぴったりに来たのは、幼馴染もとい腐れ縁の黒原優。
 待ち人の一人だ。
 俺の隣に立つ優の髪は栗色で、俺の黒髪よりも僅かに長い。制服をまるで学校案内の手本のようにきちんと着ている彼は、終始笑顔を絶やさないのでとても穏やかな印象を受ける。
 あくまで印象、外見は、だが。
 勉強も運動もできる完璧君な優が、ふと思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば信也は英語の宿題ちゃんとやってきたの?」
「……え? ちょっと待て、そんなのあったっけ?」
 俺の慌てた声を聞いて、優は呆れたように目を細めた。
 馬鹿だなぁ、という言葉が優の表情にありありと浮かんでいる。
 ……言い返せないのが悔しい。まだ言われたわけではないけれど。
「あったよ。教科書45ページの英訳。しかも今日は15日だから、信也、当たるね」
 優は爽やかな笑顔で、俺の希望を打ち砕く。
 まずい、忘れていた。
 俺たちのクラスを受け持つ英語の先生は日と出席番号で生徒を当てていく。そして俺はその先生がどうも苦手だった。生徒を注意する時の言い方がいちいち嫌みでしつこいのだ。
 特に、宿題を忘れてきた者に対しては。
 学校に着いた後宿題を始めたとして、例え休み時間の全てを犠牲にしたとしても授業までに終わる可能性は限りなく0に近いだろう。
 なぜなら、俺の中で英語は天敵として登録されているからだ。
 俺はちらり、と優に視線を向けた。彼はにこやかに笑って首を傾けている。
 こうなったら困った時の神頼み、忘れた時の優頼みだ。
 ……嫌だけど。
「ゆ、優?もしよかったら、その……ノートを……」
「だと思った」
 俺が最後まで言い終わる前に、優は鞄から一冊のノートを取り出す。学校で渡してくれたらいいのにと思いながらも、折角出してくれたノートを再び戻させるのも何なので、俺はそのノートを受け取……ろうとした。
「……あの、優サン?貸してくれるんだよ、な?」
 一向に手を離す気配を見せない優に、俺は嫌な予感を覚えながら問いかける。彼はしっかりとノートを手に持ったまま、至上の笑みで頷いた。
「もちろん貸してあげるよ。……その代わり今週の掃除当番よろしく」
 前言撤回。優は完璧なんかじゃない。「性格以外は」完璧なのだ。
 俺の記憶が確かなら、今週優の班が掃除で当たっているのは3Fのトイレだ。あそこは暗いし気味悪いし上級生の階だしで、最も嫌われている掃除場所なのだ。よって掃除をサボって帰る生徒も少なくない。
 恐らく、いやかなり高い確率で俺一人のトイレ掃除なんてことになりかねない。
 だからといって俺までサボれば、冗談では済まされないだろう。
 誰にって、今目の前で笑顔100%を振りまく優に。
 俺の脳裏に、ほんの少し懐かしい歌が過る。
―天使のような、悪魔の笑顔
 溢れているのは「この町」ではなく、俺の目の前だ。
「ね?」
 有無を言わせない笑顔は最強で最恐だ。そして英語の宿題を忘れた俺には、選択肢なんて他には存在しない。
「……ありがたく、代わらせていただきます……」
 俺の敗北宣言とほぼ同時に、待ち合わせの時間をやや遅れてもう一人がやってきた。
「よっす」
 日に焼けた顔に笑顔を浮かべているのは遅刻魔の友人、相沢健吾だ。彼は手を軽く合わせて謝罪を口にする。
「わり、寝坊した」
 しかしその顔には反省の文字が見えない。
 いつものことだ、と俺は笑って挨拶を返し学校へと向かって歩き出すのだが、横では優がその笑顔からは想像ができないくらいの文句を並べている。それをも笑って流す健吾に向って、俺は心の中で拍手を送った。
 これもまた言ってみれば、いつものことである。

 かつかつと、チョークが黒板を叩く音が響く。生み出される白い文字をノートに写し取りながら、俺はチラと教室を見回した。
 机に突っ伏している者、6人。机の下で漫画を開いている者、3人。ノートに盛大な落書きを制作中の者、3人。
 皆、真面目に勉強しようぜ。
 俺がそんなことを考えていると、座っている椅子の下から小さな衝撃を感じる。後ろの席に座る健吾が、下から俺の椅子を軽く蹴っているのだ。
 授業中に俺を呼ぶ彼の合図に、俺は僅かに振り向いた。
「なんだ?」
「なぁ今日の国語、宿題だった作文の発表だろ?」
「あぁ」
 先生に気づかれぬよう、二人声を潜めて会話を交わす。健吾の手元を見ると、二枚の作文用紙が白紙の状態で広げられていた。
 健吾、お前もか。
 本来この授業で使われるべき理科の教科書は、机の片隅で顕微鏡の使い方を示していた。今授業でやっているのはガスバーナーなのだが。
「題、自由だろ?信也は何にした?」
「将来に対する未来予想図(仮)的なこと」
 そう答える俺の頭部に、軽い衝撃が起きた。恐る恐る視線を上げたその先には、呆れと諦めを混ぜたような先生の顔がある。
「……すいませぇ―ん……」
 俺と健吾が同時に謝罪。というか、話しかけてきたのは健吾の方なんだけど。
 先生は教卓へと戻っていく道すがら、居眠り中の生徒二人の頭を俺にしたように叩いていった。

 チャイムが鳴り、それと同時に教室へと入ってきた先生によって国語の授業が始められる。今日は前回の授業から予告されていた通り、宿題であった作文の発表をしなければならない。出席番号順で一人一人前に出ての発表に、俺はかなり緊張する。
 結局理科の時間全てを費やして健吾が書きあげた作文は、昨日の夕食についてだった。よほど書くネタがなかったのだろう。だが、野菜炒めに入っている肉の重要さとその存在意義について語る作文は、正直如何なものかと思う。
 優の方はというと、データ空間における物質の結合と分離が電子に及ぼし得る……続きが思い出せない。とりあえず、中学生が自由題で選ぶテーマでないことだけは確かだ。
 俺は当たり障りなく自分の将来設計について書いたものを発表する。大まかな内容は次の通りだ。
『子どもは二人で孫は三人。猫を一匹飼っている。小さな庭付きの一軒家で、老後は静かに暮らす』
 なんだか、途中の過程を一気にすっ飛ばしてしまった気がする。
 発表も中盤に差し掛かった頃、ガラ、と控えめな音をたてて教室の扉が開かれた。
 全員の目が注目する中、一人の男子生徒が扉に手をかけたまま立っている。休みかと思っていたが、どうやら遅刻だったようだ。彼はしばらく考え、今が国語の授業中で作文発表の真っ最中だと気がついたらしい。一人納得したように、うんうん頷いている。
「岡本君、来るならもう少し早く来なさいね」
 先生の呆れた声に彼、岡本正樹は軽く応じる。
 ちょうど発表者が離れた教壇を先生が一瞥し、岡本に問いかけた。
「来たばっかりだけど、発表できる?」
「もっちろん。俺、今日の為にすげー考えてきたんだから!」
 岡本は大袈裟なほど頷くと一旦彼の席に鞄を下ろし、そのまま教壇へと足を進めた。手には、何も持つことなく。
 まさか作文に書いた内容を全て覚えているのかと俺が少々驚いた矢先、いつもと変わらない彼の大きな声が教室に響いた。
「題は『今日、俺が遅刻してきた理由』。しっかりと言い訳させていただきます!」
 さすがだ。
 岡本はこのクラスでムードメーカーの役割を担っている。いつだってクラスを盛り上げる彼にとっては、この場もその舞台となるらしい。
 皆が唖然とする中、岡本はまるで何かの演説のように語りはじめた。
「いやね、俺ちゃんと学校に間に合うように家を出たんですよ。そしてこう、自転車で学校に向かっている途中、空から不思議な黒い影が現われたんです。そいつが学校へと降りていくのを見た俺は、これは大変だ、皆を守らなくては!との思いから一心不乱に自転車を漕ぎ、学校に到着したんです。で、そいつと屋上で直接対決になって、今やっと相手を退却させました。いやー、強敵だった」
 彼の話は、九割五分嘘でできていた。
 俺たちは何とも言えない笑みを顔に浮かべる。彼の作り話にではなく、つい本当のことを言ってしまった、彼の過ちに。
 先ほどから彼は「自転車に乗って」学校に来たと口に出しているが、岡本の住む地区は、自転車通学が禁止されている地区だ。
 皆の予想通り、岡本は授業終了後教師に呼び出されて教室を出ていく羽目になった。
 俺に出来ることといえば、教室に帰って来た彼の肩を同情に満ちた心で叩く、それだけだ。
 「今度からはもう少し上手い言い訳を考えとけよ」との忠告と共に。

 これといって、すごいことがあるわけではない。
 でも、心の底から笑っていられるこんな日常が、やっぱり一番だと思う訳で。
 「平和っていいな」なんて思いながら俺は、とりあえず一人くらいトイレ掃除に来いよと嘆く声を止められはしなかった。
 うん、現実逃避しても変わらない。わかっていたことだったけど。
 放課後のトイレで一人掃除用具を持ちながら、俺は少し泣きたくなった。

・・・終わり



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