海を目指して七日旅

−1話−

黒蒼昴

 

 〜出発日 初めまして?〜

 
 ………………。
 …………ん? 何だ………水の、音?
 ぼんやりとした意識の中、どこかで聞いたことのあるような大量の水が揺れる音で俺はうっすらと目を開けた。
「――痛ぅぅ………!」
 目が覚めると同時に二日酔いのような頭痛に襲われて、俺は思わず顔をしかめて右手を頭に当てる。
「……ん?」
 痛みがいくらか和らいできたとき、初めて自分の体に何かが当たっていて動かしにくいことに気づいた。
 俺は頭から手を離すと、ゆっくり首を動かして周りの様子を見回す。
 自分の体をしっかりと椅子に固定する一本の黒い帯、目の前には大きな窓があり、その下にいくつかの計器が並んでいる。そして窓の上にある小さい鏡には、きょとんとした表情を浮かべる自分の顔が映っていた。
「あれ、なんで俺車に乗ってるんだ?」
 なぜか見知った愛車の運転席に座っている俺は首を傾げる。
 フロントガラス越しに外を見ると、目の前には見渡す限り小さく波立つ水面が広がっており、遠くには水平線に沈んでいく夕日。そして手前の砂浜には幾度も穏やかな小さな波が押し寄せては引いていくことを繰り返している。どうやら先ほどから聞こえていたのはこの波の音だったようだ。
 さらに周りを見渡すと、ここはほとんど人気の無い小さな浜辺でこの場にいる人間は自分と、少し離れた浜辺で何やら一人で遊んでいる見た目高校生ぐらいの少女だけということが分かった。
 俺は遠くで楽しげに遊ぶ少女の様子を観察しながらぽつりとつぶやく。
「よく一人だけであれだけ楽しそうにはしゃげるもんだなぁ………で、どこだここ?」
 なんで俺は今現在こんなところで車の中からあの娘を眺めてなんかいるんだ? 俺は腕を組んで唸りながらこの現状に至った経緯を思い出そうとする。
 う〜ん………駄目だ、分からん。
 周りの景色には全く見覚えが無いし、そもそも家から出て車に乗った記憶すらない。ん、待てよ。こういう感じの症状をどこかで聞いたことがあるような……。
「――はっ。まさかあれか? 飯食った後に婆さん、飯はまだかいなとか言うあれなのか? うわぁぁ! 嫌だ、この歳で痴呆は嫌だ〜っ」
 ふと浮かんだその恐ろしい考えを振り払うかのように俺は狭い車の中で身悶えする。と、そのとき肘がハンドルに当たり、クラクションが短く大きな音を静かな浜辺に響かせる。
 すると遠くで遊んでいた少女がびくっと体を震わせてこっちを振り向いたかと思うと、なぜかこちらに向かって歩きだした。
「うおっ。な、なんだ?」
 初めは彼女が好奇心か何かから近づいてきているのかと思ったが、なんだか様子がおかしい。顔が怖い、何だかすごくお怒りになられている。何だ? 俺何か悪いことでもしたかな。って考え込んでる場合じゃないな、どうしよう逃げようか。……残念もう手遅れだ。
 ドアノブに手をかけるより先に、運転席のドアのすぐ横でじゃりっという砂地を踏みしめるような音が聞こえた。俺が恐る恐る上を見上げると、怖いお顔が外から俺を見下ろしていた
 え〜っと、こんなときはどうすれば、ああそうだ。
 俺はとりあえず外の阿修羅さんに向かってにっこりと微笑みかける。すると彼女も同じように柔らかい笑みを浮かべ、指で車から出てくるように無言で指し示す。
 完璧なスマイルを浮かべながらやんわり首を振って拒否をすると、彼女は笑顔で頷き、『ガンッ、ガンッ』と足でドアをノックし始めた。
「うおっ、やめてくれ! 俺の愛車に傷がついちまうっ。分かった、分かったからっ!」
 俺が慌ててドアを開けて車から出ると、初めて彼女は口を開いて「分かればよろしい」と教師が生徒を褒めるような口調で言った。
「何だ一体、人の車をサッカーボールみたいに気安く蹴りやがって。ボールの何百倍の値段がすると思ってんだ」
 しゃがみこんでドアの表面を確認しつつ俺が少女に向かって怒鳴るように言うと、彼女は少しも臆することも無く、というよりなぜか呆れたような顔をする。
「……何百倍って、ずいぶんと安い車なのね――ってそんなことはどうでもいいわ。そんなことより何か私に言うことなりやることなりあるんじゃないの?」
 語気を強めてそう言うと、少女は俺をまっすぐ睨みつけた。俺はなぜいきなり見ず知らずの彼女に睨まれなければならないのか困惑した目で少女を見つめ返す。
 なんだよ言うことや、することって。そんなこと急に言われたって……はっ、まさか。いや他には思い当たらないし……。
「ははっ、すごいなお前。エスパーかよ」
「へ?」
 少女はいきなり何を言いだすのかと言いたげな、不思議そうな表情をして俺を見つめる。
「じゃあ聞かせてもらおうかな。ここってどこなんだ?」
「…………さあ?」
 困惑したような表情を浮かべる彼女に俺は「おいおい」と苦笑交じりに口を開く。
「『さあ?』って、さっき何か訊くことがあるでしょって言ったばっかりじゃないかよ」
 俺の言葉に少女は「はぁ?」と眉を寄せて反論する。
「私は何か言うことがあるんじゃないのって言ったの。訊いてくれなんて一言も言ってないわよ」
 彼女の反論に俺は怪訝な顔をして答える。
「はぁ? どっちも同じじゃないか」
「同じじゃない! 言うと訊くじゃ全然違うじゃないのよ」
 少女は怒った口調で続ける。
「だいたい何よ『ここはどこ?』って、自分がここまで連れてきたんじゃない。まさか、ここはどこ? 僕は誰? とか言い出すつもりじゃないでしょうね」
 再び俺を睨む彼女に「おいおい」と俺は笑って反論する。
「何言ってんだよ。さすがに自分の名前まで忘れるほど呆けちゃいないぞ。というかそこまでいったらもう痴呆どころじゃないだろうが」
「へぇ〜、じゃあ言ってみなさいよ自分の名前」
 少女は挑発するような口調で、にやりと笑みを浮かべて言う。その言葉にむっときた俺は彼女に指を突きつけて言う。
「いいか、よく聞けよ。俺の名前は――名前は……名前は?」
 徐々に小さくなり、最後には疑問系になった俺の口調に少女は冷たい目線を向ける。
「ああ、いやいや。全然呆けて無いぞ? もう元気元気。ただちょっと自分の名前が出てこないだけ――いや、喉のとこまで出かかってんだよっ」
 俺は慌てて彼女にそう繕いながら頭の中で必死に思い出そうと頑張る。
 あれ? やばい、俺の名前って何だっけ? え、マジで痴呆?
「…………あのさ」「ああ、そうだっ!」
 少女が何か言いかけたとき、俺はある物を思い出して手をぽんっと叩いた。
 俺はズボンのポケットに手を突っ込むと中から財布を取り出した。その財布の中からさらに一枚のカードを取り出して、それを見ながら俺はつぶやくように言う。
「俺の名前は……瀬川、啓太?」
「なんで疑問系? …………っていうか、もしかして本当にそうなの?」
 少女の自分を見る目つきが変わっていくのに気づき、俺は首を全力で振りながら答える。
「いやいや、決して呆けてなんかいないぞ俺は。ただちょっと自分の名前が思い出せなかっただけさ」
「……ある意味、呆けよ。天然のね」
 

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