「樹君、君はことりのことをどう思っているんだい?」
家に着いたことりは、晩ご飯の準備をするためにキッチンに行っているために、リビングは晃一と千秋の二人だけだった。
エプロンを結びながら髪を一つにまとめることりに、晃一は見とれていたというのはまた別のお話である。
「好きです」
千秋は笑顔を崩さないまま、しかし晃一は緊張でがちがちになっている。
「だろうね、でなけりゃあの子の側に居つづけるのはつらいだろう?」
「……どうして、ですか?」
「あの子は初対面の人にはほとんど必ず壁を作るし、人を試そうとするところがあるしね」
「そう、ですね」
千秋の言葉に思い当たるところのある晃一は黙るしかなかった。
「あの子は不幸な子でね、いろいろあったんだよ、昔から。聴く覚悟はあるかい?」
笑顔はほとんど消えてしまった千秋は晃一に語り始めた。
「じゃあちなみに、あの子から僕や母親の話を聞いたことがあるかい?」
晃一は少し考えてから、
「いいえ、ほとんどないです、千秋さんのことを少し聞いたことがあるぐらいで」
「ふふ、だろうね、小夜子(さやこ)、僕の妻であの子の母親はね、十二年前に事故で亡くなっててね、ことりは小夜子に車が衝突するところを目の前で見てしまったんだ」
そう言って語り出した話は、晃一のまったく知らないことりの過去だった。
ことりと小夜子はその日、二人で外食してその帰りだった。
「おいしかったわね〜、ことり」
「うん、おいしかった!」
そんなよくある親子の雑談をしながら、前を小夜子が、その少し後ろをことりが歩いていた。
「はい、ストップ〜」
「すとっぷ〜」
赤信号で二人は立ち止まった。しばらく待って信号は青になり、小夜子が先に歩き出した。
後ろのことりは小夜子が歩き出したのを確認して歩き出そうとしたが、
ゴン!
という大音とともに小夜子はトラックに引きずられて、ことりから遠ざかっていった。
「……さ〜よ?」
そんなことりの母を呼ぶ声は周囲の悲鳴にかき消された。
ことりは足を浮かせたまま母の名前を呼び続けていた。
「そのときのことりはヒヨコがお母さん鳥の後ろを付いて歩いているのをテレビで見て、そのマネをしていたんだ。おかげで事故に巻き込まれずにすんでね、そのテレビ番組には今でも感謝しているよ」
晃一は遠い目をして語る千秋に話しかけることができなかった。
「幼稚園はその後一年ぐらい休んで、どうにか話せるようになっても一言二言だけで、ことりから話しかけてくることもほとんどなくなってしまってね」
普段はあまり自分から話すことのない、ことりの心の底にあるトラウマを晃一は端だけでも見たような気がしていた。
「あの子はほんとうに自分のことは話さないだろう? あの子は怖いんだろうね、また親しい人を失うことが。学校でもあまり他人と話す事はないとよく担任の先生に言われたものだよ」
遠い過去、だけど忘れられない過去。ことりの持つ記憶に触れながら、晃一は千秋に無言という返答をした。
「樹くん、加山神社のことは聞いたかな?」
「はい、よく行くって言ってました。一緒に行った事はないですけど」
「確かにことりはよく行っている、けれどもあの子はいつも手ぶらで行って、見るだけ見て帰ってくるんだよ」
その言葉の意味がなんとなくだが、晃一は理解できていた。
離れるのが怖い、近づくのが怖い、ならば常に一定の距離を置けばいい、そんなことりの考えが一番近くで見てきた晃一には分かるような気がしていた。
「授業をサボるのに成績がいいのが不思議で仕方ないとも言われたこともあったな〜。ことりは家で毎日きちんと勉強しているし、飲み込みも早いほうだから成績がいいのは不思議ではないしね……」
そこでいったん言葉を区切って、千秋は一度深呼吸をして、
「すべては二度と悲しい思いをしたくないからだったんだろうね」
「……だった?」
遠い目をしていた千秋は晃一の方を見て、語り始める前の笑顔に戻った。
「しかし最近ほんとうによく話すようになってね。お弁当を一つ多めに作りたいなんて言ったり、学校のことを話すようになったり、しかもたいていの話には男の子が登場して、ね?」
「……すいません」
笑顔を向ける千秋に思わず謝ってしまった晃一に対して、千秋はイスから立ち上がって、
「ありがとう、樹君、君のおかげでことりは良い方向に変わったと思う。小夜子に代わってお礼を言いたい、ありがとう樹君。ほんとうにあの子の最近の笑顔は輝いていたと思う」
そう言って千秋は深々と頭を下げた。そんな千秋の行動に対して晃一も立ち上がって、
「いや、頭を上げてください、僕にとってもことりのおかげで充実した学園生活を送れているんです、だから……」
頭を上げた千秋はニコニコ笑顔で晃一の手を握り、
「娘をよろしく頼むよ!」
そう言った。背後のことなど気にせずに。
「……ちぃ?」
二人の後ろにはエプロンをしたことりが立っていた。
ことりが呼びに来ていたことに千秋は気づかずに言葉を発した。
「お! ことりか、丁度よかった。樹君なら義息子になっても文句は言わないよ、むしろ大歓迎かな!」
親指を立てて笑う千秋に対して、ことりは無言のまま近づいていき足を踏みつけた。
続く・・・