夕焼けの唄 −1話−

雪桜

 最初はただ、うるさいやつだと思っていただけ。
 纏わりつく小さな手も、見上げてくる大きな瞳も、ただただ鬱陶しかっただけで。
 それだけだった、はずなのに。

『夕焼けの唄』

―1―

 足元で聞こえる泣き声に、男は舌打ちをした。
 木の枝の上に横たえていた体を起こし、彼は下を覗き込む。秋色に染まり始めた葉が邪魔で下はよく見えないが、感じからして人間の子どもだろう。親を呼ぶ声が嗚咽に交じって聞こえる。迷い子かと考えながら、男は肩先まで伸ばした闇色の髪を鬱陶しげに払った。鬱蒼と茂る木々が並ぶこの森は、子どもでなくとも道を見失うには十分だ。
 せっかく気持ちよく寝ていたところを起こされて、彼は至極機嫌が悪かった。
 はぁ、と一つ溜息をつき、男は音もなく飛び降りた。
 漆黒の衣が翻り、たん、と地につけた片足が小さな音をたてる。
 予想の通り、そこにはまだ幼い人間の少女がうずくまっていた。肩まであろう黒髪を二つに結い、桜色のワンピースをまとっている。
 突然の物音に顔を上げた少女は、目の前に立つ男を見上げた。
「……おにぃちゃん、だれ?」
 涙で濡れた大きな瞳が男を見つめる。しかし男は不機嫌そうに顔をしかめ、少女を見下す目を細めた。
「オレの足下でギャーギャー煩いわ。黙るか他所行くかしぃ」
 その冷たい声音に、しかし少女は安堵の表情を浮かべる。
 心細さに流れた涙は、もう止まっていた。
「ねぇ、おにぃちゃん村の人?私出口わかんなくなっちゃったの。おにぃちゃん、お家がどっちにあるかわかる?」
 少女の問いかけに、男はまたため息をついた。あまりに無邪気な少女の様子に気が削がれる。本当はすぐにでも自分の領域から放り出そうと思っていたにも関わらず、男は面倒くさ気に森の一方向を指差した。
 そう、それはただの気まぐれからの行為で男は少女の質問に答えてやる。
「村はあっちや。さっさと行き」
 ぶっきらぼうにそう告げると、男は現れた時と同様に瞬時に姿をかきけした。男にとっては単に木の上へと飛び上がったに過ぎなかったが、少なくとも少女には男の姿が消えたように映る。
「おにぃちゃん?」
 しばらくの間キョロキョロと辺りを見回していた少女だったが、首を傾げながらも先程男が示した方向へと駆けていく。
 漸く静けさを取り戻した木の上で、男は再び瞳を閉じた。
 
「おにぃちゃーん!」
 足下で甲高い声が呼ぶ。
 最初の内は無視を決めこんでいた男だったが、何度も自分を呼ぶ声にいささか苛立ちを覚え始めた。
「おにぃちゃん、どこ〜?」
 男は仕方なしに枝を踏み切り体を宙に舞わせると、その声の主―昨日の少女の前へとその姿を現した。
「……なんでここにおるんや」
「おにぃちゃん!」
 ぱぁ、と笑みが広がる少女とは対照的に、男は不機嫌さを隠そうともせず少女を見下ろした。しかし少女はそんな男の視線に怯えることなく、満面に浮かべた笑みを男に向ける。
「おにぃちゃん、昨日はおにぃちゃんのおかげでちゃんとお家に帰れたよ」
 嬉々として語る少女の言葉に目をすがめ、男はとりあえず頷いた。
「そうか……そんで?」
「あのね、しず、おにぃちゃんにありがとぅって言いに来たの。しずのこと、助けてくれ てありがとう」
 少女の真っ直ぐな瞳が男を映す。
 男はそんな少女の様子に少しばかりの戸惑いを見せた。すぃ、と視線を少女から外し、気のない相づちをうつ。そして男はどこか困ったように言葉を返した。
「……なら、用事は終わったやろ」
  言外に早く帰れという思いを込めたその言葉に、しかし少女はふるふると首を横に振る。他に何があるのだと瞳に疑問の色を浮かべる男に、少女は笑顔のまま首を傾けた。
「しず、まだおにぃちゃんのお名前聞いてないよ。あ、私はしずっていうの。おにぃちゃんは?」
 くい、と袖を引かれ、男は呆れた瞳でしずと名乗る少女を見つめた。くいくい、となおも袖を引っ張るしずに、男は仕様がないという体で言葉を紡ぐ。
「童、俺は妖者(あやかしもの)や」
 妖者。それは人に在らず妖怪に類する者。人間が恐怖し疎む、決して相容れぬ存在。男自身、人間を好みはしない。できれば関わり合いにもなりたくない。
 それでもしずの手を振り払わなかったのには、男自身が一番驚いていた。
 
 恐らくしずの表情は恐怖に歪むのだろう。面倒事からの解放感と、一抹の哀しさがない交ぜになって胸を過る。自分の複雑な心情に男は気がつかないふりをして、少女がすぐに走り去るだろうと考えていた。しかし男の予想は、大きく裏切られることになる。
「あやかし……? あやにぃ?」
 しずは聞き慣れぬ単語を男の名と勘違いしたのか、短く縮めて呼び名をつける。男は一瞬、しずが何を言っているのか理解できなかった。
「……ちょい、待ち、童。誰が『アヤニィ』や、誰が」
「しず、『ワラベ』なんて名前じゃないよ?」
 しずが不思議そうに男を見上げる。男は何度か口を開閉させ、諦めたように大きく息をついた。
 これ以上の問答は煩わしいだけだ。
 そう判断した男は、しずの目が自分から逸れた一瞬で再び木の上へと飛び上がりその場を離れる。
 しずが己を呼ぶ声を耳にしながら、男はどこかざわつく心をもてあましていた。
 負の感情を露わにする瞳は見慣れていたが、少女のそれは男が今まで向けられたことのないものだった。そんな少女の瞳が、どうしても脳裏から離れない。
 男はしずの声が聞こえなくなるところまできて、頭を振る。
 それでも少女の瞳は、瞼の裏に焼きついたかのように鮮明に残っていた。
 
 ・・・続く



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